一般的に谷崎潤一郎と聞いて思い浮かぶのが小説『細雪(ささめゆき)』や『春琴抄(しゅんきんしょう)』などの代表作、他に「マゾヒズム」という刺激的でアブノーマルな単語だと思う。
『春琴抄』のあの凄まじい愛は何度も読み返すくらい気に入っている。おそらく僕がマゾということもあるだろう。あのような傑作は読めばその魅力が分かるので敢えてここで記す必要はない。(気が向けば書くかもしれない。) そこで僕はブログタイトルに挙げた随筆『陰翳礼讃(いんえいらいさん)』を取り上げたい。
黒船来航以降、西洋化・近代化の道を駆け足で突っ走ってきた我が国。ランプや電気ストーブなどの利器に慣れてしまった昭和初期の日本人。日本家屋において電化製品をいかに部屋に調和させ電気コードをうまい具合に隠すかに腐心していた谷崎は、日本家屋を見つめ直し、それが生む濃淡のある光と影による美を見出す。
庇で、障子で、天から注ぐ陽の光は目一杯淡く儚げなものにされて初めて室内に入ることを許される。日本家屋の奥の方は昼でも明かりをつけないと暗い。そんな薄暗い部屋のまた奥にある、床の間に堂々と腰を据えた暗闇に、誰もが子供の時分に得体の知れない「おそれ」を抱いただろう。
しかしその暗闇こそが掛軸の金子や、漆の器やそこへ盛りつけられる料理、あまつさえ人間をも美しくみせる。稀に例外もあるが。
「そんなこと言われてもピンと来ねーよ」という人は、次のことを試して欲しい。日がだいぶ傾き暗くなり始めた頃、漆塗りでなくていいから、赤や黒に塗られた「漆風」の汁椀にインスタントの吸い物や味噌汁を注ぐ。そのまま部屋の明かりを点けず椀を覗いてみる。立ち上る湯気それだけでも美味そうに見える。その隣に炊きたてのご飯を盛った茶碗を置いてみよう。一刻でも早く箸をつけたくならないだろうか。暗がりでなくとも、煌々と光る蛍光灯の下よりオレンジ色の、いわゆる電球色の灯りの下で見る食べ物の方が美味しそうに見えてそそられるだろう。
茶道の心得がある人であれば谷崎の指摘する美がよりわかると思う。蛍光灯の下で、棗から取り出した抹茶に湯を注いでも、何杯もおかわりしたくなるような飲み物にはならないだろう。抹茶オレ方が何十倍も美味い。
だが茶室で飲むとなるとまた話が違う。あの狭いせまい躙口(にじりぐち)をくぐると、釣り鐘が覆い被さったかのような暗さ。その暗がりの中で肌触りよい焼き物の茶碗に注がれたお茶の美味しいこと。陰影は味さえも変えてしまう。(ここまで書いておきながら、茶室で飲むお茶ってそんなに美味かったか?という疑問が生じたがそれを言うと元も子もないのでやめておく)
茶道の経験がない人でも、美術館で絵画などを見たことはあるだろう。館内の照明の暗さは作品の保護が目的であるが、限られた明かりに照らされた絵画はやはり美しく見える。展示で気に入った絵のポストカードを出口の売店で買って後で見返すと、いい絵には違いないが展示を見たときに抱いた感動が湧き上がってこない。不思議なものである。
床の間で、茶室で、美術館で、あるいはどこか別のところで影について思うことがあった時は、ぜひこの本を思い出して手に取ってもらいたい。